日本人は外国人だから

去年に放送された「学べるニュース」という番組からこのビデオが今日、目に留まった。

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以下番組の録音がある:

ナレーター:今年の四月、アリゾナ州は、移民に関するある法律を作りました。 それは、われわれ日本人にも関係することなのです。

司会者: ここで、州独自の法律が出来ました。 これはですね、外国人は必ず身分証明書を携帯していなければいけない。 警察が職務質問をして、身分証明書を持っていなかったら、逮捕されてしまうと。

タレント(皆): へええ?厳しい!

タレント:日本人が観光で行っても捕まるかもしれない?

司会者:そう、外国人ですから

タレント:そうか?……

外見などから不法移民かどうか職務質問

日本の外国人登録証明書の法律をあまり分からない方のため、以下には金城一紀さんの「GO]という小説からの一つのシーンを載せている。

「どこから歩いてきたの?」

僕が、有楽町です、と本当のことを答えると、若い警官は、そう、大変だったね、と言い、いかにも労をねぎらう様子で頷いた。普通ならここで、それじゃ気をつけて帰りなさい、という展開になるはずなのだけれど、相手もさすがにプロだ。僕の中学時代の残り香を嗅ぎつけたらしく、お得意の質問に移った。

「うちはどこ?」と若い警官が厳しい顔をして、尋ねた。

さて、例えば、ここで僕が住所を言うとする。若い警官は無視で交番に連絡を取り、同僚の警官が住民台帳を見て僕が本当のことを言っているかどうかを調べる。その時、ついでに僕が《在日韓国人》なのも分かる。それを若い警官に伝える。若い警官は僕に尋ねる。「『外国人登録証明書』、持ってる?」。日本には外国人登録法という、『日本に在留する外国人』を管理するための法律がある。管理というと一応聞こえがいいのだが、要するに、「外国人は悪いことするから、首に首輪をつけとこう」という発想の法律だ。僕は日本で生まれて日本で育っているけれど、『日本に在留する外国人』だから、登録を義務づけられていて、当然ながらその証明書も持っている。その「外国人登録証明書」は常に持ち歩かなくてはならないことになっていて、それに違反すると、場合によっては、《一年以下の懲役もしくは禁固または二十万円以下の罰金》を科せられる。要するに、首輪を外した奴には折檻が加えられる、というわけだ。僕は国家に囲われている家畜ではないから、首輪はつけてない。これからもつけるつもりはない。

とにかく、僕は重罪を犯して若い警官の前に立っていた。

金城一紀「GO」角川文庫183-184 より

追放された者の自由

確かにアリゾナ州の新しい法律は厳しいものである。だが、ならば日本は?われわれどこでもある日本人は、日本国籍を持つ限、大丈夫だけれども、しかし、外見から見れば日本人らしくない日本人は?

アリゾナ州と違って、日本では、観光でも、三十年間か四十年間も日本に在留する方でも、日本で生まれ育って、周りの仲間たちと、つまり日本人と同じ空気を吸って、同じ食べ物を食べて育った方でも同じ扱いをされる。ということは、日本における移民・在留外国人に関する法律は確かに厳しいものではないか。

さて、日本人とは、一体何者なんでしょうか?

「GO」の最後のチャプタより

「どうして?」

桜井は何かを言いあぐねている感じで何度かくちを小さく開けては、閉めた。それがどんな言葉であれ、とにかく桜井の声が聞きたかった。僕は、どうした?と優しく言って、桜井を促した。桜井は目を伏せて、言った。

「お父さんに……、子供のころからずっとお父さんに、韓国とか中国の男とつきあっちゃダメだ、って言われてたの……」

僕はその言葉をどうにか体の中に取り込んだあと、訊いた。

「そのことに、なんか理由があるのかな?」

桜井が黙ってしまったので、僕は続けた。

「むかし、お父さんが韓国とか中国の人にひどい目に遭ったとか、そういうこと?でも、もしそれだとしても、ひどいことをしたのは、僕じゃないよ。ドイツ人のすべてがユダヤ人を殺したわけではなかったようにね」

「そういうことじゃないの」と桜井はか細い声で、言った。

「それじゃ?」

「……お父さんは、韓国とか中国の人は血が汚いんだ、って言ってた」

ショックはなかった。それはただ単に無知と無教養と偏見と差別によって吐かれた言葉だったからだ。そのでたらめな言葉を否定することはひどくたやすかった。僕は言った。

「君は――、桜井は、どういう風に、この人は日本人、この人は韓国人、この人は中国人、て区別するの?」

「どういう風にって……」

「国籍?さっきも言ったように、国籍なんてすぐに変えられるよ」

「生まれた場所とか、喋ってる言葉とか……」

「それじゃ、両親の仕事の関係で外国で生まれ育って、外国の国籍を持つ帰国子女は?彼らは日本人じゃないの?」

「両親が日本人だったら、日本人だと思うけど」

「要するに、何人ていうのはルーツの問題なんだね。それじゃ訊くけど、ルーツはどこまでさかのぼって考えるの?もしかして君のひいおじいちゃんに中国人の血が入っていたとしたら、君は日本人じゃなくなる?」

「…………」

「それでもやっぱり、日本人?日本で生まれ育って、日本語を喋るから?それじゃ、僕も日本人ていうことになるね」

「……わたしのひいおじいちゃんに中国人の血が入ってるなんて、ありえないもの」と桜井は少し不服そうに言った。

「君は間違ってるよ」と僕は少し強い口調で言った。「君の『桜井』っていう苗字はね、元々は中国から日本に渡来した人につけられた名前なんだ。そのことは、平安時代に編まれた『新選姓氏録』っていうのにちゃんと載ってるよ」

「……むかしの人には苗字なんてなくて、あとから適当につけたって話を聞いたことがあるけど。だから、わたしの先祖が中国の人だなんて分からないじゃない」

「その通り。君の先祖が桜井家に養子に入った可能性もあるしね。それじゃ、もっと遡ろう。君の家族はお酒が飲めなかったよね?」

桜井はかすかに頷いた。僕は続けた。

「今の日本人の直接の先祖と思われてる縄文人にはね、お酒が飲めない人は一人もいなかったんだ。これはDNAの調査で明らかになってる。というか、むかしのモンゴロイドたちは全員お酒が飲めたんだ。ところが、約二万五千年前の中国の北部で突然変異の遺伝子を持った人間が生まれた。その人は生まれつきお酒が飲めない体質の持ち主だった。そして、いつ頃かは分からないけど、その人の子孫が弥生人として日本に渡来して、お酒が飲めない遺伝子を広めたんだ。君はその遺伝子を受け継いでる。その中国で生まれた遺伝子が交じってる君の血が汚いの?」

沈黙

僕は身動きもせず、桜井の言葉を待った。桜井は長い長いため息をついて、言った。

「本当に色々なことを知ってるのね。でもね、そういうことじゃないの。杉原の言ってること、理屈では分かるんだけど、どうしてもダメなの。なんだか恐いのよ……。杉原が私の体の中に入ってくることを考えたら、なんだか恐いの……」

速かった鼓動が徐々に元のスピードに戻り始め、同時に、ついさっきまで僕の体を重くしていた焦燥感が消え始めた。僕は桜井よりも長い長いため息をついた。

金城一紀 「GO」角川文庫177-179 より

こども東北学、あるいは切り刻まれた歴史の先に

昨日の毎日新聞で以下の記事を目に留まった。本をまだ読んでいないけれども、時間があればね。とにかく読むのに楽しみに。

記事がここから始まる。

宮城県、登米市、米山町

自身の経験を軸に、東北の貧しさと豊かさの歴史を描いた。1976年、宮城県南三陸町生まれの東北研究者。東日本大震災で、実家は辛うじて残った。

もともと専業農家だが、今は自動車の4次下請け工場なども営む。「高卒後、親の工場で働いたけど、仕事が減って家族の私からクビに。3年ほど町の民俗資料館に勤めて、2001年に慶応大に入りました」

共同体の固い殻で自然災害に耐えてきた東北。国と社会の矛盾を押しつけられ、「へき地」扱いされ続けてきたと感じる。

過疎地のブールス

 

先の大戦の戦場の記憶から逃れられない祖父は、アルコール依存症だった。「これから天皇陛下さ会いさ行く」と、田んぼに背広と長靴姿で現れたことも。ある親戚は、親が戦前、本家の財産を処分し旧満州(現中国東北部)に移民した「罪」を子として背負い、戦後も本家の敷居をまたげなかった。実家の裏山には、由来のよく分からない「蝦夷(えぞ)塚」があった。「蝦夷が本当はどんな人だったかも分からないほど、東北の歴史は悲しく切り刻まれ、忘れられてきたと思う」

小学生の頃、標準語の「発音練習」をした。中学の同級生で4年制大学に進んだのは自分一人。親に黙って受験し合格すると、親は親戚から「結婚もさせないで、あまやかして遊ばせていいのか」と責められた。

それでも、小学6年生で初めて上京したとき、一人暮らしの人々の存在に驚き、家に鍵をかけるとは「なんて寂しい」とも思った。郷里の人々は、深酔いする祖父のことを「狐に化かされた」とうわさしたが、そこには、さげすみと共に優しさがあった。「今も、東北にとらわれ続ける愛郷心のようなものがある。故郷を出た後ろめたさゆえのものかもしれませんが」

共同体に比重を置く田舎と、個人に比重を置く都会の両方の良さが活(い)きる社会がほしい。そのためにも「震災と原発事故で奪われた東北の土と海は、必ず取り戻さなくてはいけない」と思う。マイナスの札を延々と並べたうえでも、なお東北を愛したい。「この本のまとまりのなさ、混乱のありようこそ、私の内面そのものなのです」

毎日新聞 2012年1月22日 東京朝刊 より

新しい人よ、目ざめよ

毎日新聞で以下の記事を目に留まった。

特集ワイド:日本よ!悲しみを越えて 国際政治学者・坂本義和さん

 

<この国はどこへ行こうとしているのか>

 ◇グローバルな連帯必要--坂本義和さん(84)

客間に案内されると、白と紅紫のかれんなユリが迎えてくれていた。花瓶の向こうでカーテンが、穏やかな日差しを浴びている。

「今日の閉塞(へいそく)と混迷は、一つの時代の終わりではないですか」。坂本義和さんが静かに語りかけてきた。

「ルネサンスは中世から近代への転換点で、芸術や科学が花開いた時代でした。しかし、それに先立つ中世末期の欧州は、いろいろな点で暗黒の時代だったのです。戦争を繰り返し、(伝染病の)ペストで人口の約3割が亡くなりました」。絶対的存在だったカトリック教会の権威は地に落ち、人々は混迷の世を漂った。そこから生まれたのがルネサンスの運動だった。

「社会が閉塞感に陥る中、教会の権威に頼らず、古典も読み解きながら、自らの感性で新たな生き方を築こうとする市民の意識。それが、あの運動や宗教改革に発展していったのです。それに続いて、主権国家が権威と権力の核をなす時代が始まりました」

そして今。「その国家の権威が世界的に問われている」と坂本さんは言う。

放棄された農業、宮城県、登米市

東日本大震災、東京電力福島第1原発事故からの復興を模索するこの国には、ルネサンスに匹敵する新しい思考が求められているとするなら、それは何なのか--。

「日本という『国家の枠』にとらわれている限り、答えは見つからないでしょう」

人類はいかにして平和に暮らせるかの研究を続けてきた84歳の国際政治学者は、そう言って一つ息を吐いた。

1945年の敗戦は、「国家」と共に生きるという国民のアイデンティティーを一度は葬った。国家への不信感は60年安保闘争でピークに達していた。「ところが自民党は、その後、うまい手を打ちました。当時の池田勇人首相が打ち出した『所得倍増』というスローガン。個人の利益を国が保証してくれるというのですから、国民はそれに乗ったのです」

高度経済成長で暮らしは豊かになった。公共事業や原発立地自治体への交付金は地方を潤わせた。

高度経済成長の後

以上の企業の正面

「マイホーム主義という夢に惑わされ、『国の言うことを聞いていれば損をしない』という信頼感が培われていったのです」。原発ですら地球温暖化阻止に役立つ存在とされた。

だが、福島第1原発事故は国家の権威の疑わしさを明るみに出した。

「電力を大量に使い、消費を楽しむことが幸せだったのか。原発立地自治体への交付金は、都市と過疎地との格差を覆い隠そうとするものではなかったか。原発が環境と豊かさを支えるとは、国家による宣伝だったのではないか……と。すべては幻想だった」

「国策民営」によって形成された原子力ムラを見る目は怒りに燃えている。「事故を『想定外』と言い逃れる科学者の無能、国民に対する無責任、警告を無視して独断を貫いてきた高慢さ、腐敗、そして開き直り……」

そして、こう続ける。

夜の宮城県

「このムラでは、誰もが責任逃れをする。日本では、下の人間が上の責任を問う文化が弱かった。しかし、私たちは仕方がないとあきらめて、国家のうそに再びのまれてしまうほど、もう弱くはないはずです」

「このムラでは、誰もが責任逃れをする。日本では、下の人間が上の責任を問う文化が弱かった。しかし、私たちは仕方がないとあきらめて、国家のうそに再びのまれてしまうほど、もう弱くはないはずです」 ー坂本義和さん

政府は事故原因の究明を待たず、ストレステストによって「安全」担保を確約する。原発を海外に輸出しようとも計画する。当初「40年」とした原発の寿命年数も、複雑なやりとりを経て「最大60年」にすり替えられようとしている。

中国・上海で暮らしていた1932年、満州事変に続く第1次上海事変に4歳で遭遇した。負傷者であふれる病院で、あごを撃ち抜かれた日本兵を目の当たりにしたのが、「戦争」という殺し合いの最初の経験だったという。

「そのとき思ったんです。もちろん、侵略される側の一般市民を悼む思いは深いんです。しかし同時に、戦地に送られ自らの生命も危険にさらされながら相手を『殺せ』と命じられた兵士もまた、国家の被害者ではないのかと」

靖国通り、東京。「そのとき思ったんです。もちろん、侵略される側の一般市民を悼む思いは深いんです。しかし同時に、戦地に送られ自らの生命も危険にさらされながら相手を『殺せ』と命じられた兵士もまた、国家の被害者ではないのかと」 -坂本義和さん

戦後は旧制一高から東京大に進み、研究者となってからは海外の政治家や知識人たちとも交流した。それは坂本さんの国家観、国民観に影響を及ぼした。

「例えば米国では草の根民主主義の意識が強い。『国民』というよりは『市民』。首都ワシントン何するものぞ!の感覚。彼らにとって、上意下達のピラミッド型社会構造は違和感が強いんです」

ならば日本は?

50年代の日本のベストセラー。(仙台の丸善書店で)

「震災を一国家の岐路と見なすべきではない。グローバル化した社会では、日本一国の努力だけで再生するのは難しい。大きく視野を広げた、新ルネサンスとも言うべき思考を持たなければ、日本も世界もますます行き詰まる」

東京で3・11の揺れに見舞われ、庭に飛び出しながら脳裏に浮かんだのは「地球という感覚」だったという。「地球に優しくどころか、災害のない期間は地球『が』優しくしてくれていたんですね」

原発は、その地球全体に影響を与えるものだ。フクシマは、とかく忘れがちになっていた「核の脅威」を再び見せつけた。「原発は極めて人工的な自国中心的な国家プロジェクト。それが制御不能となり、放射性物質は国家の領空・領海を超えて地球をむしばんでしまった」

登米市、米山町

こうした人類の生死に関わる問題に、一つの国家だけで向き合えるのか。「原発に限らず、私たちは『地球』という観点から物事を考える時代に入っている。そのためには、国家に縛られない市民が国境を超えて連帯する。個人の自立、自由という近代思想と共にグローバルな連帯、人類的な絆が求められている。だからこそ日本人もたくましい市民社会を目指すときだと思うんですよ」

市民の連帯--。坂本さんは、今月半ば、横浜に約30カ国の専門家と約1万人の市民が集った「脱原発世界会議」を一例に挙げた。自治体が連携し、国家を突き動かす手段もあるという。

「震災では世界の多くの人々が、犠牲者のために心を痛めてくれました。そうした国家を超えて他者の生命を思う連帯が必要なのです」。日本という「国家」のみを念頭に置いた考えは超えよう、と。

<学徒の魂は真実のない国家よりも、国家のない真実を求める>

戦没学徒の手記「きけわだつみのこえ」の一節に、坂本さんは今も胸を突かれる思いがするという。

「新ルネサンス」とも言うべき新時代に、私たちは進めるだろうか。

登米市

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■人物略歴

 ◇さかもと・よしかず

1927年米ロサンゼルス生まれ。東京大名誉教授。「平和-その現実と認識」で毎日出版文化賞。主な著書に「地球時代に生きる日本」「相対化の時代」「人間と国家」。編著に「核と人間」ほか。

毎日新聞 2012年1月27日 東京夕刊 より

よく登米で見かける光景はだれもいない農家です




すべての男は泣き虫である

男はつらいよ

今日、職員室で昼食を食べながら、昨日の朝日新聞の中で以下の記事を読んだ。ロジャー・パルバースさんは作家、東京工業大世界文明センター長で宮沢賢治の英訳で知られる。著書に「ウラシマ・タロウの死」「もし、日本という国がなかったら」など。

ロジャー・パルバースさんの記事(と昼食)

男から涙奪った帝国主義

「いまでも外国では、日本人は感情を表に出さない、泣かないと思われています。サムライ精神、辛抱、我慢というステレオタイプな見方が残っている。

1967年に初めて日本に来ましたが、サムライ精神とは正反対の、日本文化のウエットさに取りつかれました。大好きな浪花節にも男泣きはよく出てくる。文学でも、太宰治も石川啄木も正岡子規も泣き虫です。

タフガイ?

「男はつらいよ」の寅さんも毎回のように涙ぐむじゃないですか。日本人、特に庶民は、よく泣く男が好きだったんです。

一番印象が強いのは宮沢賢治の涙です。「雨ニモマケズ」の「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」という言葉はすごい。相手の不幸にただ同情するのではなく、その悲しみを自分のものとして泣く。日照りの時は水がないから、自分の体から涙という水を絞り出す。自己犠牲の精神が賢治の涙には含まれている。

アメにもマケズ、子供たちにも負けず

僕も、昨年の10月に、震災で壊滅的な被害を受けた岩手県の陸前高田市に行った時は言葉が出ませんでした。ただ泣くしかなかった。あの光景を見て、泣かないほうが不思議です。

海江田万里さんが国会で泣いたことで批判されましたけど、政治家も人間なんだから泣いていい。外国にも公の場で泣いた政治家はいっぱいいる。ベイナー米下院議長は有名なテレビ番組で泣いたし、ヒラリー・クリントン米国務長官は、08年のニューハンプシャー州の大統領予備選で、有権者から質問されて思わず涙を見せ、そして勝ちました。泣いたことで、「彼女もやっぱり人間なんだ」と評判が上がった。アメリカには、一度も涙を見せない政治家は心がないという空気さえありますね。

オーストラリアの元大統領ボブホークもよく泣いた。妻から離婚した時、天安問事件の後にも...

むしろ海江田さんの涙を批判する日本人には、明治以来の精神の屈折のようなものを感じます。江戸時代までの日本人はよく泣きました。でも明治になって、19世紀のイギリス、ビクトリア期の風潮をまねて、男は涙を見せるな、ということになったんじゃないか。

でも、強い男もいる

ビクトリア期の精神は帝国主義とつながっています。大英帝国を維持するために、若い公務員や軍人を植民地に送って困難な生活に耐えさせる。寄宿舎のある学校で、自立を求める。体罰やいじめに耐えられる。泣かない男が理想とされたんです。

本来、日本では男でも泣くのが当然でした。明治になって帝国主義が男から涙を奪った。

その影響がまだ残っていますが、もう男が泣きたいときに泣いてもいいんじゃいないですか。

まあ、いいじゃん?みんなと一緒に泣いても…

「男泣き」は、強さと弱さが組み合わさった日本の国民性の象徴です。泣くには、自分の弱いところを見せる勇気がいる。

その勇気がなければ、男泣きができなければ、男じゃありません。」

デーブスペクターについて

次々と浴びせてくる難題は、本当は彼らが「西洋」そのものに切実に尋ねたいことであるのは分かった。しかし、政治家でも文学者でもない、高校を卒業したばかりの自分を囲んで、そんな難しいことを問いつめているのにおどろいた。まして聞き手がみんな年上なのに自分の返答を注意深くうかがっている様子を見ていると、ベンは奇怪なものを感じた。

リービ英雄、「星条旗の聞こえない部屋」 (講談社文芸文庫) より

32-33

Monkey Majikに会う

ALTの会議

僕は三日前にALT会議に出席した。仙台市民会館で行っていた。

仙台市民会館のすぐ外

十時ごろ、「教室のテクニック」の教室に駆け込んだ。少し遅れていたから焦っていた。

学生風のALTの男一人と中年の女が黒板の前に並んで参加者に笑いかけていた。二人は終始笑みを絶やさなかった。白いブラウスの襟を灰色のジャケットの上に出した、リクルートスーツの女がいきなりタメ口を利いた。

「じゃ、これから一人ずつ回るから、質問とかあったら気軽に聞いてください」

笑みがこびりついていて、ディズニーランドの、歯をむき出して笑っている着ぐるみ人形を彷彿とさせた。

参加者たちがみんなささやきはじめた。女は言葉を切って、ぐるっと参加者を見渡した。

「本校で外国語活動担当者となってから、五年になる。児童は、少しずつ外国語、つまり英語、に慣れてきた。その間に、三人のALTにお世話になったが、児童が抵抗なく外国語に触れフ大きな役目を果たしてくれたと感じる。

「彼らが、学級担任の助手をするにあたり、《日本語が分かる》《話せる》ということ以前に、児童との羅ポートが取れることが一番である。現在のALTのMr.Sは、月に何度かの来校日には、授業だけでなく、休み時間、放課後も児童と共に過ごし、学校行事日には勤務と関係なく、児童を励ましに来てくれる。後片付けまで手伝ってくれ、一緒に昼食もとる。そうした姿勢が児童や職員にも伝わり、外国語活動の時間に、安心してアクティビティを任せ、サポートしてもらうことができるのである。まさに、Best Teaching Partner と言える」

そうしたら、Mr.Sが言いはじめた。

「わずか二年間のALTの立場しか経験していないので、自分の考えはまだ浅い。しかし、ALTがいるということは国際化をもたらす機会や「学校」という教育活動の一部であることや、オープンな考え方を持つためには極めて重要であると考える。外国人を見て、違和感を感じたり、外国人に話しかけられて委縮したりすることがないようにである。

「初めに、私は言葉の壁と未経験な出来事にぶつかり、それに対してチャレンジした。私には、日本独特の始業の挨拶や子供たちが掃除をすること、街がきれいでゴミ箱がないことなどに驚いたし、子供たちは逆に、挨拶なしで授業を始めたり、悪いマナーやジョークを言ったりすること、活動がないことなどが理解できないようだった」

以上のところは当時におしゃった通り、

「I didn`t understand certain customs and procedures, and they didn`t understand my manners and bad Canadian jokes」、と。

「しかし、最終的に、ALTである私と、日本人である彼らとの接点を見出すことができた。学校行事の跡には先生方を手伝ったり、夏にはプールで子供たちと遊んだりすることから、子どもたちや先生方とのきずなを深め、彼らの外国人に対する態度を変えてきたように感じている。

「鍵は、ALTと先生方との強力なコミュニケーションである。両者が外国語活動の目標を理解し、協力して外国語活動を行うために。もし、ALTあるいは学級担任が、相手に対して心を開かず、シャットアウトするような態度であるば、子供たちは何かあると感じるに違いない。

「ALTは、学級担任を押しのけ、外国語活動の授業の主導権を握るものではない。また、学級担任も、ALTを過小評価し、隅に追いやらないでほしい。私は、もっとやるべき事があると思う。ALTと先生方と子どもたちが共に手を取り合い、勉強したり、作業をしたり、遊んだりすることで、私たちは良きパートナーとなり、共に学んだり、理解し合ったりできるものと、確言している」

相手の先生はまた言い始めた。

「また、時間的余裕などの問題があるが、ALTと綿密な計画を立て、できるだけ密に連絡を取るなど、学級間や中学校区の学級間での学習内容のちがいだけでなく、児童の到達状況の違いをなくす必要がある。そして、小学校でのレディネスが備わるよう、中学校との接続を考えた外国語活動を意識して、指導にあたりたい。

「ALTとしては、異文化の交流を図り、自国のことを広め、そしてより良い教師、ベターパーソンになれるように修練を積みたいとのことである」

眠気と戦う講演がやっと終わった。僕は彼女に電話をして馬鹿話をしようと携帯を探した。だが、バッグの中にはなかった。家を出る時に彼女と話したから、そのままテーブルの上に置き忘れてきたのだろう。がっかりしたけど、まあいいや。バーを急ぐ参加者たちと一緒に市民会館の廊下をぞろぞろ歩いていた。

酒の席にはほとんど顔を見せないぼくは、どういう風の吹き回しか、参加した今回は最後まで付き合ってしまったのだ。

仙台の夜

街の街灯が眩しかった。男の薄い頭髪を汗がさらに薄めるのを、僕は見守った。

男は僕の知らない言語でささやきはじめた。日本語の方言だったのだろう。未知の音節と抑揚に伴って、男の腕は両側の女の肩へやさしく動きだした。熱帯植物の大きな葉のように、ゆっくりと確かな動きだった。

女の髪が金髪に近い色で目の上にブルーのシャドウを厚く塗って大袈裟な付けまつ毛。つめによく目立つ真っ白なパールのマニキュアをしていた。ピンクの水玉模様が散っている赤のキャミワンピという派手な服。

自分に男の眼差しを注いでいるのに気がついた。道を曲がりはじめた僕たちを離れないで追ってゆき、無情に凝視してやまないのは、存在すべきでないものが現れて、通るべきでないものが通ってゆくのを見守る、大きな社の前にしゃがんでいる狛犬のような、右の眼だった。

後から笑い声が聞こえた。

「外人」

女か小さい子供を叱っているような、意外に甲高い声だった。

「オーカエレカエレ」

僕は素早く目を伏せた。多分その時から、自分にはもう「帰る」ところがないことをはじめてさとった。

大声で笑い出した。その大きな体の置くから真っ黒なものを吐き出したような、抑制を知らない笑い声だった。

恥を感じた。その恥を….たちまち胸に熱くくすぶる恥。反対側の歩道からすでに聞こえてくる「アノネ」というとろけるような女学生の声に息がつまる思いをした。まわりの誰かに伝えて、誰かに叫びたかった。

まわりはみんな日本人だった。

 MONKEY MAJIKに会う

モンキーマジックは聞いたことがないなら、ウェブサイトのリンクはこちら:

http://www.monkeymajik.com/

彼らの歌の中では、これが一番だと思う (魔法の言葉):

ほかの先生四人とバーに行くことになった。自分で行ったことのないバーだった。そこでモンキーマジックに会った。

その前に、近くの居酒屋で飲み放題にチャレンジしてみた。先生一人はジャンパーのポケットからフイルターつきのマイルドシェブーンを取り出し、ビックで火をつけた。

「へえ、煙草吸うんだ」と誰かは関心したように言った。

「ときどき」

「正直言ってあまり似合わないけどな」

先生は赤くなって、それでも少しだけぎこちなく微笑んだ。

「一本もらっていいかな?」と僕と斜め向かいに座っている先生は言った。

「どうぞ」

彼は一本をくわえ、先生のライターをとって火をつける。たしかに彼のほうが煙草の吸い方がずっと様になっている。

「ギャルフレンドはいるの?」彼は聞いた。

先生は短く首を振った。「今のところ、女の子にあまり興味ないんだ」

「男の子の方が言い?」

「いや、そういうんでもなくて。よくわかんないけど」

先生は音楽を聴きながら煙草を吸っていた。身体の力を抜くと、疲労の色がわずかに顔に浮かんだ、と僕は思った。

僕たちはしばらく飲んだ後、他のバーを探しに行った。

どこか遠いところ、都会の不確実な地平線の辺りから、暗青色に変わり始めた冷たい空気を切って走っている始発電車の響きが聞こえた。

その音が消えた後に、すべては静かになった。

いくつかのドアを掠めて通り過ぎると、小さな炊事場のある道で新聞紙とポスターを張った壁に触れながら注意深く階段を下りた。

バーの中で、僕の目が写真の隣で鈍く光っている四つ角な壜に止まった。「ウイスーキ」の文字と、ラベルに描かれた赤鬚の白人の顔を認めることができた。こんなところに、もう一人が忍びこんでいるのか、と思って、壜をよく見ると、片手にウイスキーのコップを持ったほろ酔いの西洋人は、十七世紀頃のふわふわした立ち襟を掛けていた。江戸時代に日本へやってきたオランダ人のことが思い浮かんだ。出島から鎖国の中に立ち入って、長崎の路端の子供らから「鬼」や「天狗」というののしりを浴びながら、何も分からずにただただ驚いている阿呆面のカピタン。こんなところにいる、実際に、いるという、酩酊のような驚き……僕は目をこすってみた。ウイスキー壜のわきにいる姿はMonkey MajikのMaynardだった。

そう気付いたら、バーでBlaiseも立っているのを見た。

私たちはMaynardに

「青森でALTとして働いていた時、それは僕の人生で一番楽しい時代だったなー」

と言われた。

いつものように、僕は万葉集の一首を甦った。

……娘子らが 娘子さびすと 唐玉を 手本に巻かし よち子らと 手携はりて 遊びけむ 時の盛りを 留みかね 過ぐしやりつれ……

……少女たちが少女らしくしようと、唐玉をうでに巻き、同じような年の子たちと手をつないで遊んでいただろう、時を盛りのままに留めることができず、過ごしやってしまって……

(山上憶良 世の中の留まりがたきを哀しみ歌一首より 巻.ハ〇四)

カリフォルニア出身のJeff KirnerとMaynard

東北福祉大学へ

東北福祉大学の近くに泊まることになった。表通りの歩道を踏み出すと、ためらわずに、細い坂道や路地に沿って学生下宿と木造アパート密集している方角へ歩き出した。

二つの自動販売機を通り過ぎると、表通りが坂道になった。下がりきったところでその道から路地へ、路地からさらに細い路地へ、ついに最後の路地に面した家の後にある木造アパートへ。

彼女は私たちのために自分の布団を敷いて、僕は毛布の下に長い足を伸ばした。それからすぐに眠りにおちた。

目覚めると、柿の木の梢を揺がしている風の音が聞こえた。

布団から起き上がって、机の上に置いたジャケットをひったくると、僕はドアを静かにしめて、廊下に出た。長い真暗の廊下を慎重に歩みだした。

夜明けの路地は体を引きしめるように寒かった。

そして登米へ

家帰り電車で、東日本大震災を南三陸町で体験した被害者Paul Falesととても面白いな会話をしてくれた。 Paulさんは今、気仙沼市立気仙沼中学校で働いている。一ノ関行き列車の出発ホームでこのイースタンミシガン大学の卒業生と会えてとてもよかったね。僕は瀬峰駅で降りるまでずっと、日本歴史、文学、社会状況、いろいろな話ができたのはうれしかった。

もう二つのインタビューはこちら:

http://www.annarbor.com/news/paul-fales-found-alive-in-japan-reunited-in-phone-call-with-parents-on-cnn/

http://news.blogs.cnn.com/2011/03/16/reporters-notebook-american-survives-japan-quake-cnn-lets-him-call-parents/

歩いても歩いても

昨日、午後中、天気もよし久しぶりに近所に散歩に出かけてみた。

この短針が止まった時計を見かけた。錆びた建物の壁に掛けてあった。

寒そうですね。。。まあ、天気も良いといっても、4時になったらだんだんと吹く風が寒くなってきました。

短針が動いていない時計は、日本でよく見かける光景である。

車が駐車した場所に戻る前に、小さな野菜屋台に寄った。ホウレンソウと四個百円のレタスを買った。

屋台のシステムは書いてある通り:お客さんがビンに自由にお金を入れます。すごいですね。

花梨の食べ方

アパートへ帰る途中で時計が掛けてある建物をまた通り過ぎると、万葉集の詩を思い出した。

これは近江の荒れた都に通り過ぎた時に、柿本人麻呂の作った詩より。

……大宮は ここと聞けども  大殿は ここと伝へども 春草の しげく生ひたる 霞立ち 春日の霧れる ももしきの 大宮処 見れば悲しも

(巻1・ニ九)

(……大宮はここだったと聞くけれども、  その大殿はここだったと言うけれども、 春の草が深く生え、 霞が立って春の日がかすんでいるのだ。たくさんの石で築かれた大宮の跡を見ると悲しいことであるよ。)