Monkey Majikに会う

ALTの会議

僕は三日前にALT会議に出席した。仙台市民会館で行っていた。

仙台市民会館のすぐ外

十時ごろ、「教室のテクニック」の教室に駆け込んだ。少し遅れていたから焦っていた。

学生風のALTの男一人と中年の女が黒板の前に並んで参加者に笑いかけていた。二人は終始笑みを絶やさなかった。白いブラウスの襟を灰色のジャケットの上に出した、リクルートスーツの女がいきなりタメ口を利いた。

「じゃ、これから一人ずつ回るから、質問とかあったら気軽に聞いてください」

笑みがこびりついていて、ディズニーランドの、歯をむき出して笑っている着ぐるみ人形を彷彿とさせた。

参加者たちがみんなささやきはじめた。女は言葉を切って、ぐるっと参加者を見渡した。

「本校で外国語活動担当者となってから、五年になる。児童は、少しずつ外国語、つまり英語、に慣れてきた。その間に、三人のALTにお世話になったが、児童が抵抗なく外国語に触れフ大きな役目を果たしてくれたと感じる。

「彼らが、学級担任の助手をするにあたり、《日本語が分かる》《話せる》ということ以前に、児童との羅ポートが取れることが一番である。現在のALTのMr.Sは、月に何度かの来校日には、授業だけでなく、休み時間、放課後も児童と共に過ごし、学校行事日には勤務と関係なく、児童を励ましに来てくれる。後片付けまで手伝ってくれ、一緒に昼食もとる。そうした姿勢が児童や職員にも伝わり、外国語活動の時間に、安心してアクティビティを任せ、サポートしてもらうことができるのである。まさに、Best Teaching Partner と言える」

そうしたら、Mr.Sが言いはじめた。

「わずか二年間のALTの立場しか経験していないので、自分の考えはまだ浅い。しかし、ALTがいるということは国際化をもたらす機会や「学校」という教育活動の一部であることや、オープンな考え方を持つためには極めて重要であると考える。外国人を見て、違和感を感じたり、外国人に話しかけられて委縮したりすることがないようにである。

「初めに、私は言葉の壁と未経験な出来事にぶつかり、それに対してチャレンジした。私には、日本独特の始業の挨拶や子供たちが掃除をすること、街がきれいでゴミ箱がないことなどに驚いたし、子供たちは逆に、挨拶なしで授業を始めたり、悪いマナーやジョークを言ったりすること、活動がないことなどが理解できないようだった」

以上のところは当時におしゃった通り、

「I didn`t understand certain customs and procedures, and they didn`t understand my manners and bad Canadian jokes」、と。

「しかし、最終的に、ALTである私と、日本人である彼らとの接点を見出すことができた。学校行事の跡には先生方を手伝ったり、夏にはプールで子供たちと遊んだりすることから、子どもたちや先生方とのきずなを深め、彼らの外国人に対する態度を変えてきたように感じている。

「鍵は、ALTと先生方との強力なコミュニケーションである。両者が外国語活動の目標を理解し、協力して外国語活動を行うために。もし、ALTあるいは学級担任が、相手に対して心を開かず、シャットアウトするような態度であるば、子供たちは何かあると感じるに違いない。

「ALTは、学級担任を押しのけ、外国語活動の授業の主導権を握るものではない。また、学級担任も、ALTを過小評価し、隅に追いやらないでほしい。私は、もっとやるべき事があると思う。ALTと先生方と子どもたちが共に手を取り合い、勉強したり、作業をしたり、遊んだりすることで、私たちは良きパートナーとなり、共に学んだり、理解し合ったりできるものと、確言している」

相手の先生はまた言い始めた。

「また、時間的余裕などの問題があるが、ALTと綿密な計画を立て、できるだけ密に連絡を取るなど、学級間や中学校区の学級間での学習内容のちがいだけでなく、児童の到達状況の違いをなくす必要がある。そして、小学校でのレディネスが備わるよう、中学校との接続を考えた外国語活動を意識して、指導にあたりたい。

「ALTとしては、異文化の交流を図り、自国のことを広め、そしてより良い教師、ベターパーソンになれるように修練を積みたいとのことである」

眠気と戦う講演がやっと終わった。僕は彼女に電話をして馬鹿話をしようと携帯を探した。だが、バッグの中にはなかった。家を出る時に彼女と話したから、そのままテーブルの上に置き忘れてきたのだろう。がっかりしたけど、まあいいや。バーを急ぐ参加者たちと一緒に市民会館の廊下をぞろぞろ歩いていた。

酒の席にはほとんど顔を見せないぼくは、どういう風の吹き回しか、参加した今回は最後まで付き合ってしまったのだ。

仙台の夜

街の街灯が眩しかった。男の薄い頭髪を汗がさらに薄めるのを、僕は見守った。

男は僕の知らない言語でささやきはじめた。日本語の方言だったのだろう。未知の音節と抑揚に伴って、男の腕は両側の女の肩へやさしく動きだした。熱帯植物の大きな葉のように、ゆっくりと確かな動きだった。

女の髪が金髪に近い色で目の上にブルーのシャドウを厚く塗って大袈裟な付けまつ毛。つめによく目立つ真っ白なパールのマニキュアをしていた。ピンクの水玉模様が散っている赤のキャミワンピという派手な服。

自分に男の眼差しを注いでいるのに気がついた。道を曲がりはじめた僕たちを離れないで追ってゆき、無情に凝視してやまないのは、存在すべきでないものが現れて、通るべきでないものが通ってゆくのを見守る、大きな社の前にしゃがんでいる狛犬のような、右の眼だった。

後から笑い声が聞こえた。

「外人」

女か小さい子供を叱っているような、意外に甲高い声だった。

「オーカエレカエレ」

僕は素早く目を伏せた。多分その時から、自分にはもう「帰る」ところがないことをはじめてさとった。

大声で笑い出した。その大きな体の置くから真っ黒なものを吐き出したような、抑制を知らない笑い声だった。

恥を感じた。その恥を….たちまち胸に熱くくすぶる恥。反対側の歩道からすでに聞こえてくる「アノネ」というとろけるような女学生の声に息がつまる思いをした。まわりの誰かに伝えて、誰かに叫びたかった。

まわりはみんな日本人だった。

 MONKEY MAJIKに会う

モンキーマジックは聞いたことがないなら、ウェブサイトのリンクはこちら:

http://www.monkeymajik.com/

彼らの歌の中では、これが一番だと思う (魔法の言葉):

ほかの先生四人とバーに行くことになった。自分で行ったことのないバーだった。そこでモンキーマジックに会った。

その前に、近くの居酒屋で飲み放題にチャレンジしてみた。先生一人はジャンパーのポケットからフイルターつきのマイルドシェブーンを取り出し、ビックで火をつけた。

「へえ、煙草吸うんだ」と誰かは関心したように言った。

「ときどき」

「正直言ってあまり似合わないけどな」

先生は赤くなって、それでも少しだけぎこちなく微笑んだ。

「一本もらっていいかな?」と僕と斜め向かいに座っている先生は言った。

「どうぞ」

彼は一本をくわえ、先生のライターをとって火をつける。たしかに彼のほうが煙草の吸い方がずっと様になっている。

「ギャルフレンドはいるの?」彼は聞いた。

先生は短く首を振った。「今のところ、女の子にあまり興味ないんだ」

「男の子の方が言い?」

「いや、そういうんでもなくて。よくわかんないけど」

先生は音楽を聴きながら煙草を吸っていた。身体の力を抜くと、疲労の色がわずかに顔に浮かんだ、と僕は思った。

僕たちはしばらく飲んだ後、他のバーを探しに行った。

どこか遠いところ、都会の不確実な地平線の辺りから、暗青色に変わり始めた冷たい空気を切って走っている始発電車の響きが聞こえた。

その音が消えた後に、すべては静かになった。

いくつかのドアを掠めて通り過ぎると、小さな炊事場のある道で新聞紙とポスターを張った壁に触れながら注意深く階段を下りた。

バーの中で、僕の目が写真の隣で鈍く光っている四つ角な壜に止まった。「ウイスーキ」の文字と、ラベルに描かれた赤鬚の白人の顔を認めることができた。こんなところに、もう一人が忍びこんでいるのか、と思って、壜をよく見ると、片手にウイスキーのコップを持ったほろ酔いの西洋人は、十七世紀頃のふわふわした立ち襟を掛けていた。江戸時代に日本へやってきたオランダ人のことが思い浮かんだ。出島から鎖国の中に立ち入って、長崎の路端の子供らから「鬼」や「天狗」というののしりを浴びながら、何も分からずにただただ驚いている阿呆面のカピタン。こんなところにいる、実際に、いるという、酩酊のような驚き……僕は目をこすってみた。ウイスキー壜のわきにいる姿はMonkey MajikのMaynardだった。

そう気付いたら、バーでBlaiseも立っているのを見た。

私たちはMaynardに

「青森でALTとして働いていた時、それは僕の人生で一番楽しい時代だったなー」

と言われた。

いつものように、僕は万葉集の一首を甦った。

……娘子らが 娘子さびすと 唐玉を 手本に巻かし よち子らと 手携はりて 遊びけむ 時の盛りを 留みかね 過ぐしやりつれ……

……少女たちが少女らしくしようと、唐玉をうでに巻き、同じような年の子たちと手をつないで遊んでいただろう、時を盛りのままに留めることができず、過ごしやってしまって……

(山上憶良 世の中の留まりがたきを哀しみ歌一首より 巻.ハ〇四)

カリフォルニア出身のJeff KirnerとMaynard

東北福祉大学へ

東北福祉大学の近くに泊まることになった。表通りの歩道を踏み出すと、ためらわずに、細い坂道や路地に沿って学生下宿と木造アパート密集している方角へ歩き出した。

二つの自動販売機を通り過ぎると、表通りが坂道になった。下がりきったところでその道から路地へ、路地からさらに細い路地へ、ついに最後の路地に面した家の後にある木造アパートへ。

彼女は私たちのために自分の布団を敷いて、僕は毛布の下に長い足を伸ばした。それからすぐに眠りにおちた。

目覚めると、柿の木の梢を揺がしている風の音が聞こえた。

布団から起き上がって、机の上に置いたジャケットをひったくると、僕はドアを静かにしめて、廊下に出た。長い真暗の廊下を慎重に歩みだした。

夜明けの路地は体を引きしめるように寒かった。

そして登米へ

家帰り電車で、東日本大震災を南三陸町で体験した被害者Paul Falesととても面白いな会話をしてくれた。 Paulさんは今、気仙沼市立気仙沼中学校で働いている。一ノ関行き列車の出発ホームでこのイースタンミシガン大学の卒業生と会えてとてもよかったね。僕は瀬峰駅で降りるまでずっと、日本歴史、文学、社会状況、いろいろな話ができたのはうれしかった。

もう二つのインタビューはこちら:

http://www.annarbor.com/news/paul-fales-found-alive-in-japan-reunited-in-phone-call-with-parents-on-cnn/

http://news.blogs.cnn.com/2011/03/16/reporters-notebook-american-survives-japan-quake-cnn-lets-him-call-parents/

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