我的中国、我的祖国、あるいは故郷への旅、記憶への旅: パート2

2.言語の多い料理店

当時、ほとんどの「Chinese」と属されている移民が二つの国からオーストラリアに来る。それは香港と台湾である。

ベトナム語、英語、中国語、韓国語、日本語:パースの隣には、ノースブリッジというところがオーストラリアにおける言語や文化の多様性の中心でありながら、その多様性の起源とオーストラリアの人々の生活の多文化が発揮される。

つまり、10年前くらいまで、高い中華料理店に入ると「いらっしゃいませ」と意味する「歡迎光臨」(ファン.イン.グゥァン.リン)なんかという広東語の話し声がレストランのなかには響き渡っている時代がまだ続いていた。しかし、現在は違う。今、戦後60年も経ってから北京語がレストランの中にこっそりと這うように、耳に入ることが始まってきていた。

父が一番大好きな中華料理店:德興燒鴨店。

一九九三年、僕は五歳だった。商店街であちこちに並んでいる中華料理店の中からいくつかの「団欒」の声が歩道まで響き渡っている。

父のお気に入りのレストランはほぼ満員だった。

飲食客の声が立ちこめている。店内は騒然としていて父の言葉が聞き取れなかった。みんなの顔がぼやけるほど中華なべから灰色の煙が細く、ずるずると這うように、机の上の、天井からさかさまのロケットのように吊り下がる三つのシャンデリアへと、のぼっていた。

周りの大人たちは、二人か三人の老人が大日本帝國の記憶も中華民国の記憶もまだそれほど薄れていなかったようだ。

中国の言葉は日常の中に満ち満ちていて、母語ではないのにあたかも母語のように家の中まで響いていた。老人は二十世紀の歴史という血なまぐさいものから捻られた記憶をしばしば僕に語っていたフォームの終わり。老人の話を通して、その時代、色々な苛酷な体験があるのは分かってきた。

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