ザ・ディナーパーティー

先週の週末、ジョン-マークとノエル(彼の彼女)が我が家に来てくれました。

僕は夕飯を作ってあげました。見ているだけで美味しそうでしょう?

信じるかわかりませんけど、これは(本当にでっかい)キノコです。

ジョン-マークは小学校時代の同級生です。僕は7歳から彼を知っています。それは日本人にとっては、そんなに長くないかもしれませんが、ほとんどすべてのオーストラリア人にとってはあまりにも長い間ではないかという気がします。

彼と彼女が二年前ぐらい、教会で出会いました。来年、結婚する予定があります。結婚式の手続きはもう行っている、という話も聞きました。

ジョン-マーク、ノエル、婚約おめでとうございます。お二人の幸せをお祈りしています。お二人もさぞかし幸せそうなことでしょう。

今日のあいさつ

今朝、我が家に近い坂道を上がっていると、青いT-シャツを着ている中年の男とすれ違った。

すれ違うと、

「Morning!」

と、その男が突然、僕に呼びかけた。

一瞬驚きを感じた。それを聞いて、一瞬「?」とは思いつつも、

「あぁ、mーmorning!」と僕は挨拶をしたんだ。

***

家に帰ってから、丁寧な方なんだなあ、と思った。

ある不動産で勤めている時のことを思い出した。その頃、夕方に家を出かけて散歩することがあった。歩いていると、今朝すれ違った人と同じように、見知らぬ人とすれ違いざまに、挨拶をすると、みんなが不思議なほど、僕の挨拶に笑顔で答えた。

だからシンプルな挨拶でさえも、人の対応をだんだん変えることができると、僕は信じている。

だから、見知らぬ人とでも挨拶を交わすことが大切だと思う。周りの人に親切にすれば、同じように、自分が周りの人から親切にされる。

いや、自分の態度だけではなく、周りの人の態度も、変わることになるのかもしれない。

今朝、僕は挨拶をするということの大切さを再確認する機会を得た。

まあ、結局のところ、自分の態度次第で、この世界を変えることができるのではないか、と思っている。それほどの力があるからね。

我的中国、我的祖国、あるいは故郷への旅、記憶への旅: パート2

2.言語の多い料理店

当時、ほとんどの「Chinese」と属されている移民が二つの国からオーストラリアに来る。それは香港と台湾である。

ベトナム語、英語、中国語、韓国語、日本語:パースの隣には、ノースブリッジというところがオーストラリアにおける言語や文化の多様性の中心でありながら、その多様性の起源とオーストラリアの人々の生活の多文化が発揮される。

つまり、10年前くらいまで、高い中華料理店に入ると「いらっしゃいませ」と意味する「歡迎光臨」(ファン.イン.グゥァン.リン)なんかという広東語の話し声がレストランのなかには響き渡っている時代がまだ続いていた。しかし、現在は違う。今、戦後60年も経ってから北京語がレストランの中にこっそりと這うように、耳に入ることが始まってきていた。

父が一番大好きな中華料理店:德興燒鴨店。

一九九三年、僕は五歳だった。商店街であちこちに並んでいる中華料理店の中からいくつかの「団欒」の声が歩道まで響き渡っている。

父のお気に入りのレストランはほぼ満員だった。

飲食客の声が立ちこめている。店内は騒然としていて父の言葉が聞き取れなかった。みんなの顔がぼやけるほど中華なべから灰色の煙が細く、ずるずると這うように、机の上の、天井からさかさまのロケットのように吊り下がる三つのシャンデリアへと、のぼっていた。

周りの大人たちは、二人か三人の老人が大日本帝國の記憶も中華民国の記憶もまだそれほど薄れていなかったようだ。

中国の言葉は日常の中に満ち満ちていて、母語ではないのにあたかも母語のように家の中まで響いていた。老人は二十世紀の歴史という血なまぐさいものから捻られた記憶をしばしば僕に語っていたフォームの終わり。老人の話を通して、その時代、色々な苛酷な体験があるのは分かってきた。

我的中国、我的祖国、あるいは故郷への旅、記憶への旅

1. 随意春芳歇、あるいは地球の裏から風が吹く

ひとりの作家が、ひとつの言語で書くと、その言語の歴史を全部背負う。あるいは対峙(たいじ)している。それを常に意識せざるをえない。

リービ英雄 「我的日本語、日本語とアイデンテイテイ」より

家帰り途中で、父と一緒においしい西洋風中華料理を食べている時のこと。

これは、五歳の僕にとって、中国に関する初めての経験。

いや、僕は、右に引き合いに出したアジアで育ち、アメリカ生まれの著者と違って、今まで、アジアに関するもの自体を一生のうちにけっして意識したことがない。

だからただしくは、いま記録しようとしている思い出が、アジアに関するものとして生まれて初めて味わったものと言うべきなのであろう。

僕は右手に、僕には解けない謎を握っていた。

僕は父に質問した。

「パパ、なんて書いてあるの、ここに?」

言葉はなんて不思議なものだろう。

「ちょっと見せて。へえぇー、わからん」と、三十二歳になろうとしている父は言った。「まあね、その綺麗で優しそうな店員さんに聞いてみろ」

ある時まで、スーパに併設されていた「food court」で父と僕は中華料理を食べながら話し合っていた。食事を作ってくれた人は何歳か、何省からオーストラリアに移民したか、いつの世代に属されているか、全て二人は分からなかった。

父の言葉に従い、僕はくしゃくしゃになっていた割り箸の包み紙を取り、席から立ち上がった。

周りをきょろきょろと見回した。今、見たじゃないかっと漠然と思いながら席を離れ、レストランの中を歩き回りだした。

そうすると、五歳の僕には読めない王維(オウイ)の詩が飾ってある壁の後ろから店員さんが突然、現れてきた。

空山新雨后,天气晚来秋。
明月松间照,清泉石上流。
竹喧归浣女,莲动下渔舟。
随意春芳歇,王孙自可留。*

人気のない山に、新たに雨が降った後は、
夕べともなると、いよいよ秋らしい。

僕と店員さんのあいだの距離はもう4メートルばかりに近づいている。僕の目と店員さんの目が合った。店員さんは私にひとことも言いかける前に、小さな五歳の私の手にあった割り箸の包み紙を取り出した。世界中にはどこでもある別の外国語と同じように見分けられない何かが大きく、紙面に暗緑色文字で書いてある。

若い女性の店員さんは私を見て割り箸の包み紙を見て、それからまた僕を見る。

「これ…どういう意味?」と僕は言う。

「ええ? 中华でしょうか? ちょっと見せて」

そうして店員さんに渡すと、

「ああ、中って中心の、ね、中央とか、あとは华って綺麗でしょう、華やかとかね」

この二つの文字の中には、別の世界への道がビンビンと照らしだされていた。

[华(華)]

美しさ。

二つの言葉。中心の中と華やかの华。

二つの国と二つの言語。

風鈴のように、どちらも心の中で響いている。

* 人けない山に雨が降ったばかり、

夕べともなるといっそう秋の気配。

明るい月が松林の間に照り輝き、

清らかな泉が石の上を流れる。

竹がざわめいて、洗濯の娘たちが帰ってゆき、

蓮の葉が動いて、漁り舟が流れを下ってきた。

春の芳しい草が枯れたとて、かまわない。

この若様はこのまま、山中に留まるほうがいい。

(山居の秋瞑、王維(唐の詩人))

我的中国、我的祖国、あるいは故郷への旅、記憶への旅:パート2へのリンクはこちら

https://japanwatch2020.wordpress.com/2012/05/

林株楠という画家が「山居の秋瞑」に基づいて描いた絵 2009-04-13